「教科書を疑え」と「教科書から学べ」は両立できる

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こんにちは🐈

 

ノーベル医学生理学賞に日本人研究者の本庶佑さんが選ばれましたね

 

体の免疫を担うT細胞とガン治療に関わる研究

 

この手の医学的な話は、普通わたしの知識レベルだとチンプンカンプンですが、今回は違います!

 

むしろすんなり頭に入る

 

なぜなら、テレビで繰り返し本庶さんの研究内容が特集されるたびにわたしの脳内ではT細胞やらがん細胞が『はたらく細胞』キャラ達に変換されているからです!

がん T細胞

 

 

さすが『はたらく細胞』!

ありがとう!『はたらく細胞』!!

 

 

ところで、最近本庶さんのとある発言が話題になってましたよね

それがこちら↓

news.line.me

 

はいドン!

「教科書に書いてあることを疑え」 

 

教科書を疑え

 

それに対する反応は大きく分けると大体この2つ

 

 

◆「それって教科書から学ぶことは意味がないってこと?」

 

◇「定説を鵜呑みにせず論理立てのプロセスを検証せよ!」

 

 

 言葉だけの印象だと、前者のような解釈も生まれてしまうのでしょうね

 

 

 

ただ、本庶さんの研究の礎である『科学』を知れば、「教科書に書いてあることを疑え」という言葉が

 

「教科書を勉強する意味はない」とか

 

ましてや

 

「教科書を勉強する必要はない」などといった内容を意図したものでないことが分かります

 

 

 

というか、むしろ逆

『教科書から学ぶ』という前提があってこその『教科書を疑う』なんです

 

 

そこで今回は、

 

「教科書を疑わなければならないなら、一体何を信じればいいの?」

 

「教科書を疑うくらいなら、教科書勉強しなくて良くね?」

 

と、教科書の学習に対する信頼がグラっときた方に向けて、

科学的視点から、

 

 

『教科書を疑う』が、どう『教科書から学ぶ』と両立するのか

 

紹介しようと思います!

 

 

 

他の学問にも多少は応用できるんじゃないかな?

 

多分!

 

 

 

 

 

『教科書を疑う』の『疑う』とはどういう意味?

教科書を疑え

 まずは『疑う』の意味を見てみましょう

 

 得られた結果結論正しくないのではないかと思う。うたぐる。 「証人証言を-・う」 「この調査結果には-・う余地はない」
 その人悪いことをしたのではないかと思う。うたぐる。 「私は犯人ではないかと-・われているらしい」 「父は花瓶を割ったのは次郎ではないかと-・っている」
 はっきりしないことについて、よくない方に、否定的考える。 「誠意を-・う」 「これでは頭の程度が-・われる」 「私はこの患者について赤痢を-・っています」 「 - ・ひながらも念仏すれば往生す/徒然 39
 

 

「与えられた結論が正しくないのではないかと思う」という定義ですが、

 

科学において、『疑う』というのは、単なる結果の否定にはとどまりません

 

それは、

 

『他の可能性について考え模索すること』です

 

 

つまり

 

・導き出された結論の根拠は何か?

・検証に使用したサンプル数は十分だったか?

・検証方法は目的にかない正しく施行されたか?

 

など、検証プロセスのすべてを改めて見つめなおすことなのです

 

 

じゃあ、一体なぜそんなことをする必要があるのでしょうか?

 

どこかの頭がよくて、偉い人がやった研究なんだから正しいに決まってるじゃないか?

 

そう思いますよね

 

結果や定説が存在するにもかかわらず、科学が仮説と検証を続けていく理由、

それは『科学』の在り方、定義そのものに実は関係してるんです

 

 

 

なぜ科学の探求には終わりがない?驚きの科学の定義

教科書を疑え

わたしはアメリカの大学で心理学を専攻しました

心理学は 日本では文系の学問ですが、

 

実はアメリカでは理系科目なんです

その理由は、科学実験や統計を駆使するするから!

 

 

そんなわたしが在学中に履修した『科学実験』の授業で、『科学』に関して教授からこんなことを習いました

 

 

「Science should be falsifiable.」

 

(科学とは、その誤りが証明可能であるべきだ)

 

 

「100%絶対真実な理論は科学とは言えない、それは真理だ」と教授は言ったんです。

 

これを聞いた時大変驚きました。だって、

「科学的に証明されている」と言われたら、それはもう「ほぼ覆すことができない真実」だと言っているようなものだと、ずっと思っていたからです

 

 

でも実際は『科学的に証明されている』ということは、すなわち『過去の実験においてその事象の妥当性を示す数値が高い』というだけで、

 

 

『絶対正しい』

 

 

ということにはならないのです

 

 

極端な話、どれだけ事実に近づこうと、科学的に実証された結果である限り、異を唱える余地は永遠にある、ということになるんですね

 

 

そして、この考え方こそが、科学を妥当で信頼のおけるものにしているんです

 

 

例をあげましょう

 

 

 

別の可能性は常に考えられる!実例

『別の可能性が考えられる』とは、『検証方法の見直しが可能』  であることを指します

 

その例を2つあげますね

 

 

①『タバコが体や肺に悪い』論

教科書を疑え

この理論、世間ではもはや定説です

 

感覚的には間違いないと思われますが、実は、この理論を実証する最も効果的な実験って行われたことがないんだそうです

 

 

実証実験のやり方自体は明らかです

 

 

ですが問題はその方法そのもの

 

 

タバコが本当に人体に有害かどうか

それを知るための最も効果的な方法とは、

 

 

タバコ以外の外気をほとんど吸ったことのない、産まれたばかりの乳児にタバコを何年も摂取させてその結果を観察することなのだそうです

 

 

ところがこの方法は道徳的にタブー

当たり前ですが

 

 

ただ、最も効果的な手段が使えないとなれば、完璧なデータの収集は難しくなります

 

 

大人を対象にした実験はこれまで行われてきていますが、タバコを何年も吸った人が、吸わなかった人よりも長生きしちゃった、という実験結果すらあるのだそうです

 

 

タバコは体や肺に有害なのは感覚的にイメージできても実際のところはどうなのか、

実は科学的にもまだ実証を続ける余地があるのです

 

 

 

②『実験サンプルのランダムな抽出』

教科書を疑え

何十人、時には何百人、何千人の協力が必要となる検証があります

 

その際、人選が偏らないよう、ランダムに実験参加者を選ぼうとすることがありますが、この『ランダム』というのが中々に難しいことはご存知ですか?

 

 

これも母校の教授からの受け売りですが、本来、本当の意味で『ランダム』とは『実験に参加する機会を誰もが平等に与えられること』なのだそうです

 

 

それまで『ランダム』って『適当に』とか『バラバラに』って意味だと思ってましたが、実は科学では『偏りないこと』を指していたようです

 

 

ってか、『誰もが』ってめっちゃ難しいですよね!

 

 

参加者って、募集ツールとか、場所みたいに、参加募集方法によって絶対偏るじゃないですか

 

 

だから『ランダム』って実は相当実現のハードル高い

 

 

 

ですから、例えばよくテレビでやってる「100人聞きました!」みたいな企画を目にすると、

 

どういう場所や、職業や、年齢の人を対象に聞いたのかなーなんてふと思います

 

 

こんな風に、どんなに頭良かろうと、偉かろうと、完璧な結果の得られる実験をするには様々な制限がつきもの

 

だからこそ、科学は既存の知識や理論に挑み続けるんです

 

 

 

「疑う」とはより深く知ること 

教科書を疑え

ここまで述べるともうお気づきかとは思いますが、『疑う』こととは『模索する』こと、

 

 

『模索すること』とは『より深く知り、明らかにすること』です

 

 

 

そして、探求のスタートは前説を知ることから始まりますから、教科書の内容を知らないでは話になりません

 

 

 

わたしの恩師も、本庶さんと同じく、既存の知識を疑うように教えましたが、教科書から授業は行いましたし、教科書の内容に無知でいろとは一言も言いませんでした

 

 

“故きを温ねて新しきを知る”

 

 

これぞ正に科学の基本姿勢であり、本庶さんの意図したメッセージじゃないかな、と思います

 

 

 

 あと、『はたらく細胞』を読もう!

はたらく細胞(1) (シリウスコミックス)

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きゃとらに🐈 

 

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